働き方・生き方
HUMAN RESOURCE DEVELOPMENT 人材育成
岡田晃【第2回】吉田松陰を知る 前編 – 時代を築いたリーダー達~歴史から紐解く、プロフェッショナルの本質~
【コラムジャンル】
プロフェッショナル , リーダー , 前編 , 吉田松陰 , 岡田晃 , 教育者 , 時代 , 本質 , 歴史 , 知る , 第2回 , 築いた , 紐解く , 行動力 , 連載
2015年01月24日
時代を築いたリーダー達~歴史から紐解く、プロフェッショナルの本質~
吉田松陰は、10歳の時から藩校「明倫館」に出仕し兵学を教え、19歳時には独立した師範となり、22歳まで「明倫館」で教壇に立っていた人並み外れた秀才。
新聞・テレビ・講演を通じて、様々なニュースを伝え解説している岡田晃講師が、経済評論家という立場から歴史と現代を結びつけて、その時代を牽引してきたリーダー達にスポットをあてて語る連載インタビュー企画です。
インタビュアー 八波洋介
吉田松陰を知る 前編
早速ですが先生、吉田松陰のお話をしていきましょう!太く短い人生でしたが、少年時代から頭角を現していたのですね。
松陰はわずか11歳の若さで、当時の長州藩主であった毛利敬親(当時は慶親)の前で、『武教全書』という兵学の御前講義を行うという普通では考えられない経験をしました。この講義を聞いた藩主は感動したという話が伝わっています。
すでに10歳の時から藩校「明倫館」に出仕し、兵学を教えていたというから驚きです。19歳の時には独立した師範となり、22歳まで「明倫館」で教壇に立っていました。人並み外れた秀才だったのでしょうね。
吉田松陰はどんな環境で育ったのか?
そもそも、松陰はどんな環境で育ったのでしょうか?
松陰(寅之助)が生まれた杉家は、長州・萩の藩士でしたが、禄高の高くない下級武士で、半農藩士のような生活だったようです。普通の士族であれば、萩の吉松淳蔵の私塾などに通うというのが習わしだったようですが、松陰の少年時代の専らの勉強場所は田畑だったといいます。父や兄と畑仕事をしながら、父が「四書五経」などの書物を音読し、兄と松陰が復唱するといった形で、小さいころから勉学に励んでいました。
杉家は非常に学問を愛していた一家でした。松陰の父、百合之助には、吉田大助と玉木文之進という二人の弟がいましたが、彼らは松陰に対して、何者にも劣らぬ軍学師範に育て上げるために徹底的に鍛え上げたのです。
松陰は、5歳の時に吉田家へ養子に入るのですが、この吉田家は、長州藩において山鹿流とよばれる軍学を講ずる家でもあり明倫館においても師範の立場にいました。養父の吉田大助の死とともに6歳の若さで吉田家を継ぐことになるわけです。 この境遇が、松陰の人生を運命づけていたのかもしれません。
吉田松陰にはずば抜けていた性分がある
それから成人した松陰は藩に留まることなく、全国を駆け回るなど精力的に活動しますね。
松陰が学者・教育者として優れていたことは、先ほどお話ししたように明白なのですが、より松陰がずば抜けていた性分があります。それは、単に座学だけではなく、“行動力”を兼ね備えていたということですね。
その頃の日本は幕府も各藩も財政難に陥り、長年の幕藩体制が行き詰っていました。幕府は天保の改革に着手、長州藩でも藩政改革が始まっていましたが、中国ではアヘン戦争が勃発し、日本近海には外国船が頻繁に出没するようになっていました。こうした時代背景が彼を突き動かしたと言えるでしょう。
1853年にペリーが浦賀に来航する前から、松陰は東北に顔を出すロシア艦隊や、清を襲ったアヘン戦争などを対岸の火事とは考えず、日本はいかにして外国の進出に対応すべきか、日本の進むべき道は何かを考えるようになっていきます。
そして、自分が学んできた山鹿流の兵学では日本を守りきれないと考え、西洋兵学の必要性を感じて、1850年、21歳の時に九州へ視察の旅に出るのです。 続いて翌年には藩主につき従って江戸に出ました。江戸では西洋兵学を学ぶため、佐久間象山に師事しましたが、象山をはじめとする識者との出会いは、その後の松陰の人生に大きな影響を与えました。
次回 吉田松陰を知る 中編
次回は、吉田松陰の行動力、そして人間的な魅力について、エピソード交えてお話しいただきます。
講師への講演依頼はノビテクマガジンで!
歴史上の人物から学ぶリーダー論、マネジメント論、危機管理、
そして、国内外の景気と株価を読む5つのポイントなどの講演ができる経済評論家 岡田 晃 講師のプロフィールはこちら