時代を築いたリーダ達
~歴史から紐解く、プロフェッショナルの本質~【第4回】上杉鷹山<前編>

岡田 晃

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2015年11月25日

新聞・テレビ・講演をつうじて、様々なニュースを伝え解説している岡田晃先生が、経済評論家という立場から歴史と現代を結びつけて、その時代を牽引してきたリーダー達にスポットをあてて語る連載インタビュー企画です。

 

インタビュアー

Y・Yatsunami

 

八波:鷹山が藩主になった日本はどんな時代だったのでしょうか?

 

岡田:ちょうど、10代将軍の徳川家治の時代です。

幕府は8代将軍・吉宗の時代に享保の改革によって財政を一時的に立て直しましたが、

再び財政難、大飢饉などで100年以上たった幕府の体制に綻びが出始めていました。

 

八波:当時の米沢藩はどうだったのですか?

 

岡田:多くの藩も財政が悪化していましたが、特に米沢藩は深刻で、財政は完全に破たんして

いました。今日でいえば事実上倒産の状態、現在のギリシャのようなものですね。

当時米沢藩の赤字額は20万両もありました。一両を10万円と換算すると、現在の200億円

くらいです。いち自治体においては、かなりの債務です。

そこまで悪化したのは歴史的な背景がありました。

関ヶ原の戦いで徳川側に敵対したことで、幕府から120万石あった石高を30万石に

減らされていました。石高が減るということは、藩の収入が減るということです。

さらにその後、15万石に半減させられています。

米沢藩はこのような状況にも関わらず、家臣を減らさず過剰人員を抱え、

なおかつ上杉家という名門のプライドゆえ、質素な生活に変えることができないでいました。

そうなると当然、藩の財政は厳しくなります。

それに当時は飢饉が何度も起きましたので、年貢を納めることが難しくなった農民の

逃亡も相次ぎ、税収も減ってしまうという悪循環に陥っていました。

 

八波:そんな状態の米沢藩の藩主に鷹山はなりますね?

 

岡田:米沢藩は鷹山の前任の8代藩主、上杉重定が藩を幕府に返上しようとまで

考えていた状況でした。

現代で言えば、自己破産、あるいは会社更生法を申請しようと考えていたのです。

最終的には藩の返上は思いとどまりましたが、重定は隠居し、倒産寸前の最悪な状態の

会社(藩)の社長(藩主)の座をわずか16歳という若さの鷹山に託しました。

鷹山の誠実さと賢さに期待したのです。

実をいうと、鷹山はもともと日向高鍋藩(現在の宮崎県)の藩主である秋月家の二男でした

が、上杉重定に後継ぎがいなかったため、親戚の上杉家に養子として入ったのです。9歳の時

でした。それ以来、いずれ藩主になる立場として準備というか心構えは出来ていたと思います

が、それにしてもまさか存亡の危機の真っただ中に藩主になるとは思わなかったでしょうね。

 

八波:16歳で藩の運営を丸投げされたわけですよね。秋月家という石高3万石足らずの大名家の

二男坊から名門・上杉家の養子となって藩主になったのですから、一見、目を見張るサクセス

ストーリーですが、実際の執政は相当なものだったと想像できます。

鷹山といえば、「財政改革」「倹約」「農村復興」が思い浮かびますが、他の指導者と

違った点、優れていた点は何だったのでしょうか?

 

岡田:鷹山は高鍋藩の江戸屋敷で生まれ、上杉家に養子に入った後も米沢藩の江戸屋敷に住み、

そのまま藩主になったので、米沢の地に足を踏み入れたことはなく、藩主になったすぐの

ころは、江戸から執政を揮っていました。

鷹山はまず、江戸屋敷内で大倹約を行い、江戸において実績を作ることから始めました。

絹の着物ではなく木綿の着物の着用、食事は一汁一菜、奥女中を50人から9人に減らし

ました。藩主の江戸藩邸の生活費を従来の1500両から200両余りへと、一気に削減し、

トップ自らが率先して倹約を実践したのです。

今日でいえば、聖域なき歳出カットです。

ここから、米沢藩の再建が始まるのですが、

本国(米沢)では、江戸でのこの倹約令の評判がとても悪く、多くの反発があったようです。

上杉謙信公の時代から先祖代々にわたって仕えている多くの家臣にとってみれば、

小藩出身のまだ若い養子が行っているとなれば尚更不満ですよね。

そして、藩主就任2年後に初めて米沢に入り改革を断行します。

 

八波:米沢藩に入ってから、もっと抵抗に遇ったのではないですか?

 

岡田:はい、その通りです。

上杉家としての高いプライドを持ち続けている家老などは、倹約令が出ていることを

しりながら、登城する際に派手な着物でやってくるなど反抗をしたりしました。

対する鷹山は、足軽を含めた全ての家臣を集め、具体的な数字を示して藩の状況を

説明しました。

これは2つの点で、当時の時代ではありえないことです。

第1は、藩の厳しい状況をガラス張りにしたこと。情報公開です。

第2は、足軽など身分の低いものにも直接語りかけたことです。これは今日でいえば、

規制撤廃ということになるでしょうか。

今の時代であれば、珍しいことではありませんが、なぜその発想に至ることができたのか興味

深いですよね。

そして、鷹山は、情報を共有させ、目指す方向性を示して、具体策をもって皆に協力を要請

するのです。目標と具体策の明示です。

これは、現代の政治や企業経営にもいえることで、とても大切なことといえるでしょう。

 

七家騒動2
 

 

また後年、鷹山のブレーンだった幹部藩士が、立場を利用して家臣や庄屋から賄賂を受け

取ったり過剰接待を要求したりなど不正を行っていたことを知り、厳しく処罰したことも

ありました。

身内であっても不正には厳しい姿勢を取るという公平な態度を貫いたのです。

くわえて、鷹山がすぐれているのは、TOPダウン型のマネジメントだけではなかった

ことです。武士だけでなく農民や町人など身分を問わずに提案を求めるなど、

ボトムアップとトップダウンを上手くミックスさせるというリーダーとしてのあるべき姿を

体現していました。

身分の違いを取っ払い、”オール米沢”で藩の再生に向かったのです。

これは米沢藩の大きな活力になりました。

 

八波:素晴らしい。現代においても、鷹山が支持されるのが分かりますね。

 

岡田:鷹山は単に節約だけを行ったのではありません。

財政再建と同時に成長戦略をしっかり行いました。

農民の生活の安定を図るため、農村復興に力を入れました。新田の開墾を奨励し、

自らも農村に出かけて鍬入れを行いました。新田の開拓は農民だけでなく、

武士の一部を城下から農村に移動させ、新田の開墾に当たらせました。

農業だけでなく、さまざまな地域産業の振興にも力を入れました。

その一例をご紹介しましょう。当時、越後国(現・新潟県)の小千谷縮(おぢやちぢみ)と

よばれる麻織物の原料となる青苧(あおそ)という植物を米沢で栽培し、小千谷に

供給していました。米沢産の青苧は品質がよいと評価が高かったのですが、それは

原料供給の立場に甘んじているだけで利益も薄いものでした。

そこで鷹山は素材から最終製品まで一貫生産して利益を上げることを考えました。

小千谷から織物職人を呼んで技術指導を受け、ついに製品化に成功します。これはやがて

米沢織というブランドとなり、大きなインパクトを与え有力な産業となりました。

今日でも重要テーマである「高付加価値化」を実現していたのです。

そのほか、手すき和紙、藍の栽培、塩分を多く含む温泉からの塩の製造など、

殖産振興は広範囲に及んでいます。当初は藩内の自足自給をめざしたものでしたが、

米沢織のように全国に輸出されて貴重な収入減となりました。

ユニークなところでは錦鯉の養殖もあります。ちょうど当時、大名や商人の屋敷で錦鯉を飼う

ことが流行したそうで、ブームに乗って江戸などでよく売れたという話が残っています。

財政再建一本槍だけでなく、成長戦略をいかに果たしていくかが大切なわけですね。

今日の日本経済の課題にも通じるものです。

 

 

【前編で使用】月山湖 

(後編に続く)

 

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