時代を築いたリーダー達
~歴史から紐解く、プロフェッショナルの本質~ 【第3回】吉田松陰<最終回>

岡田 晃

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2015年07月03日

新聞・テレビ・講演をつうじて、様々なニュースを伝え解説している岡田晃先生が、経済評論家という立場から歴史と現代を結びつけて、その時代を牽引してきたリーダー達にスポットをあてて語る連載インタビュー企画です。

 

インタビュアー

Y・Yatsunami

八波:多くの人物を排出した松下村塾についてお聞きいたします。okada_3-1

松下村塾には、入塾の条件はあったのでしょうか?

私たちの考える現在の学校とは違ったと思うのですが。

 

岡田:入塾の条件などはありませんでした。

ただ、一方的な知識を教え込むといった教育ではなく、

考える力をみにつけさせるために、

ディスカッションをさせることを重視していたようです。

もちろん、そのためのベースとなる知識・教養を松陰は教授していますが、その時の国内の

情勢、欧米列強への対策の話を議題に、(例えば「ペリーの浦賀来航について」「幕府が外国

と結ぼうとしている条約について」など)議論をさせたのです。

当時、長州藩では藩士の少年たちに藩を背負って立つ人材に育てるための藩校、明倫館が

ありました。ここでは、武士としての素養、知識、精神的な支柱を作ることが目的とされて

いました。

対して松下村塾は、自由な発想のもと、身分に関係なく誰でも入塾ができる私塾として

営まれていました。

 

八波:お聞きしていますと、今の日本の学校教育の現在にも通じますね。一方的に知識を詰め込む

教育にというよりも、ハーバードビジネススクールでのマイケルサンデル教授で注目された

白熱教室のような議論を主体としたものが連想できます。

松蔭も議論を重んじる授業をしていたこと、興味深いです。

 

岡田: そうですね、リーダー養成学校と言っても間違いではないかもしれません。

 

八波:さて、松陰から影響を受けた塾生・志士たちについてはどのようにお考えですか?

 

岡田:数十人とも言われるたくさんの門下生がいますが、皆さんもご存知の、久坂玄瑞、高杉晋作、

伊藤博文、山縣有朋、桂小五郎(木戸孝允)についてお話しましょう。

 

 

“久坂玄瑞”(くさかげんずい)(1840~1864年)

 

現在のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」のヒロインである文の夫ですね。

松陰としては、妹を嫁がせるわけですから、その人格と才能を評価していたようで、松陰は久坂を「長州一の俊才」と評していたそうです。松下村塾では高杉と並んで「村塾の双璧」とも呼ばれていました。

思い立ったらすぐ動くという熱血漢で、その気性も松陰と似ていたのでしょう。

1864年の禁門の変で敗れて自害したわけですが、生きていればもっと活躍していたことでしょう。

 

“高杉晋作”(たかすぎしんさく)(1839~1867年)

 

松陰の影響を大きく受けた人物です。

長州藩内で攘夷強硬派と公武合体派が対立していた中、高杉晋作は攘夷強硬派のリーダーとして頭角を現します。

長州は禁門の変で朝敵となり幕府による長州征伐が迫る中、当時の藩首脳部は幕府への恭順姿勢を示しましたが、これに反発した高杉は武力をもって藩内クーデターを起こし、藩の実権を握りました(功山寺挙兵)。この思い切った行動はまさに松陰が乗り移ったかのように見えます。

その時のグループが、ご存知の”奇兵隊”です。奇兵隊には身分の低い武士や農民の子弟が数多く参加していましたが、高杉は身分の差を超えて、新しい世を作っていかなければならないという当時では新進的な思想(考え)をもっていました。

その思想(考え)の種を蒔いたのが松陰ということになります。

苦境においても負けない精神、切り開いていく力、チャレンジ精神は、まさにプロフェッショナルの本質を教えてくれます。

 

“伊藤博文”(いとうひろぶみ)(1841~1909年)

 

後に初代首相となった伊藤博文は、高杉晋作の弟分のような存在で行動を共にしていました。高杉の功山寺挙兵の際も真っ先に駆けつけ、勝利に導きました。

松陰は黒船でアメリカに密航しようと試みましたが。その遺志を受け継ぐ形で彼は海外留学を果たし、海外の国力を肌で感じ国に帰ってきて変革の先頭に立ちました。

最初の海外渡航は1863年。まだ幕府によって海外渡航が禁止されていた時代、自ら海外留学を藩に願い出て、伊藤ら5人が密かにイギリスに向け出発しました。これが長州ファイブ」です。ロンドンの大学で学び、現地の実情を視察して回った伊藤らは、当時世界最強・最先進国のイギリスの技術、学問、文化を吸収していきました。

ところが留学中に、長州がイギリス・フランス・オランダ・アメリカの海外4カ国と下関で戦争を始めたことを知ります。海外の実力を知る伊藤は、一緒に留学をしていた井上馨とともに急いで日本へ戻り、海外との戦いは勝ち目がなく無益であることを伝えに奔走しました。

しかし結局、その主張は受け入れられず、長州は4か国艦隊によって関門海峡の砲台を占拠されてしまうなど、彼我の力の差を見せつけられました。伊藤はその後の和解交渉での活躍が評価され長州藩のリーダーへと成長していきました。

海外を知ることが大切という松陰の考えが、伊藤博文を突き動かし日本の夜明けを牽引していったのです。

 

“山縣有朋”(やまがたありとも)(1838~1922年)

 

足軽より低い身分で育ち、久坂玄瑞の紹介で松下村塾に入塾しましたが、その数か月後に松陰は刑死したため、塾生としての期間は短かったようです。しかし松陰から多大な影響を受け、松陰門下であることを誇りにしていました。

松陰の死後は高杉晋作の奇兵隊創設とともに参加し幹部となりました。功山寺挙兵でも重要な役割を果たし、その後も軍人として、幕府の長州征伐に対する戦いや戊辰戦争などでも活躍しました。

明治維新後は徴兵制を導入するなど、日本の日本陸軍の基礎を作り、内閣総理大臣にまで登りつめました。

 

“桂小五郎(のちの木戸孝允)”(かつらこごろう、きどたかよし)(1833~1877年)

 

松下村塾の塾生ではありませんでしたが、松陰が藩校・明倫館の教授を務めていた頃、兵学を学んでいました。松陰は桂を「事をなすの才あり」と評したそうで、弟子であると同時に親友でもあったようです。

松陰が下田で黒船に乗り込んで密航を試みた際、桂が自ら協力を申し出たという話も伝わっています。それについては松陰が桂に類が及ぶのを避けるため断ったそうですが、二人の絆の強さがうかがわれます。

やがて幕末の長州藩の幹部として大活躍し、坂本竜馬が仲介した薩長同盟では、長州藩の代表として盟約を成立させました。

話しは少し横道にそれますが、桂小五郎という人はなかなかドラマチックな人生を歩んだ人です。

剣術に優れた人物で、江戸三大道場の一つ、練兵館に入門し、神道無念流剣術の免許皆伝を得て、入門一年で練兵館塾頭となりました。その傍らで多くの志士たちと交流しながら見聞を深め、学問に優れた文武両道の優秀な人材でした。

彼は、有名な新選組による”池田屋事件”の際、間一髪、難を逃れることができました。

待ち合わせの時間より早く池田屋に着いた小五郎が、近くの対馬藩邸に寄っていた間に起きた事件でした。この事件で多くの長州藩士が命を落としたにもかかわらず、小五郎は強運の持ち主です。

京都一の売れっ子芸妓とのロマンスも有名です。彼女は、小五郎が幕府から追われる立場となって二条大橋のたもとに隠れていた時、握り飯を毎日届けという逸話が残っています。近藤勇に連行されて小五郎の居場所を聞かれても頑として口を割らなかったそうで、命がけで献身的に尽くしたそうです。二人は明治になって晴れて結婚しました。

 

 

八波:ありがとうございます。取り上げていただいた志士以外にもたくさんの時代のリーダーを

輩出した松陰ですが、多くの人に影響を与えた、松陰の精神、”松陰イズム”とは何なの

でしょうか?

 

岡田:迫りくる欧米列強の脅威と、それに対して旧態依然とした幕府の政治では未来の日本は立ち

行かなくなるという危機感がベースにあり、そのためには新しい日本を作るという強い思いが

ありました。

いくつかの松陰の言葉や書簡を眺めると、そうした松陰イズムの一端を知ることができます。

松陰は、兄の梅太郎への手紙に、「二十一回猛士」と書いているのですが、これは「三回猛を

奮ったので、あと十八回猛を奮うつもり」という意味のようです。この三回猛とは、東北旅行

での脱藩、藩士の身分をはく奪されたときに藩主に意見申したこと、ペリー来航時の密航の三

回「猛」を発したことをいうようです。

信念をもって全力で物事を実行するんだという、松陰の並々ならぬ決意を感じさせる言葉

であり、不屈の精神(チャレンジ精神)が窺い知ることができます。

 

八波:曲げない信念をもったチャレンジ精神、メッセージ力は絶大ですね。

 

岡田:それと、ご存知の方も多いかもしれませんが、「草莽崛起 そうもうくっき ) 」という言葉からも伝わってくる

ものがありますね。

松陰の書簡には、「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草葬崛起の人を望む外頼

みなし(今の幕府や大名は酔っぱらいのようで期待はできない。民衆が一気に立ち上がること

を望む以外はない)」とあるように、武士に世の中を変えることの期待はできない、武士では

ない農民をはじめとした庶民のチカラで変革していくのだと。

これは、身分関係なく、国民の一人ひとりが志を高く持ち、新しい時代を切り開くべきという

考えですね。

これが、後の高杉晋作の奇兵隊につながっていくわけです。

 

八波:もしも、今の日本に吉田松陰がいたら、何を望みますか?

 

岡田:今の日本はバブル崩壊後の長年の経済低迷から今ようやく脱しつつありますが、もう一回、

輝かせるためには今までの延長線の発想、考え方ではなく、国自体の仕組みを変えていかな

ければいけない時期がきていると思います。

その意味で松陰には、新しい日本を創る上でのアドバイザー、参謀になってほしいですね。

そして、次代を担うリーダーを育成してほしいですね。

 

八波:吉田松陰をとおして岡田先生が考えられる、プロフェッショナルの本質とはなんでしょうか?

松陰の生き様から、どんなキーワードがあげられますか?

 

岡田:この3つでいかがでしょう。路地裏

時代の先を見据えた“思考力””先見性”

なにがあってもあきらめない“チャレンジ精神”

余人を持って代え難い“行動力”

 

八波:ありがとうございました。

吉田松陰の回はこれで終了しますが、松陰の日本に対する想いやチャレンジ精神は、これからも多くの人に引き継がれていくでしょう。

さて、次回は「なせば成る 為さねば成らぬ 何事も~」の名言でもお馴染みの上杉鷹山について
インタビューします。

お楽しみに。

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